昭和43年 1月5日 朝の御理解
子を産むをわが力で産むと思うな みな親神の恵むところぞ
これは出産の御理解、ね、自分の力でども産むと思うな、ね、神様のおかげで産ましてもらうのぞ、皆神の恵むところぞと、まあ、教えておられるわけですね。
私これは、この出産ということだけじゃない、もう一切がそうなんだ、もう私共に力はない。神様のおかげで道を開かせてもらうのであり、神様のおかげで、産みなさせていただくのであり、もう本当に神様のお恵みを頂かなければできんのですもん、なにごとによらず、さ、そこでの神様のおかげでという有難さというものは頂けるようになる。
ね、この神様のおかげがいよいよおかげと感じさせてもらい、いよいよ有難いものが実感となってくるのです。
それでここで皆さんが間違えてならない事です、そげんい言うばってん、自分に力があるもんだから、ね、お金を持っておる人は、お金の力を持っておる、思うておる。ね、また、労働でもする人は、自分の力で俵かたげておると思うておる、ね。
もうとにかく、説得力のある人は、自分が説得力を持っておると思っておる。ね、ところがそこのところをですね、それが自分の力ではない、みんな神様の恵み、恵むところぞ、と仰る、神様のおかげであると、分かるということが信心なんです。
ね、そこでそのそれを、分かるためにお互い信心の稽古をしておると言うてもよいくらいなんですよ。
ほんなこと、神様の仰るとおり、自分でなにが出来るか、神様のおかげを頂かな
、できるるこっちゃない、ということが本当に分かることのために、お互い信心しておるというてもいいんですよ。
それがわかりゃですね、もう毎日毎日が有難うなってくるんですよ。
ね、そこでその私は、そこんところを分からして頂くためにです、お互いが修行がいるとです。
いよいよ明日から、寒修行に入ります。大寒というんですかね、寒の明けが2月の4日でしょう、2月の4日まで一月間、全教上げての寒修行でございます。
これはもう何の道でもおなしこと、柔道または、剣道といったようなものでも寒修行というものがある、芸能会の人達でもやっぱり寒中に寒の・・・?をする、ね、昔から芸子さんなんかは、筑後川の片の瀬の瀬がありますね、私は青年時代に新聞を配りよりまた。
上島から大関の向う、ですから、もう毎朝、あの片の瀬の橋を通りますとですね、あそこは昔、ずっと料亭が並んでたんですよね、片の瀬は、そりゃもうあの浜に出てですね、寒中は、一月間は、もうそれこそもうほんとに血を吐くような一生懸命でですね、三味線を弾いて、そして一生懸命声をとって、寒ごうりをとっている、そこからですね、今までなかったはずの声が出てくる、ちいう、素晴らしい事ですよね、普通に、普通のもうどんなにおらんでも出らない声、そのまひとつ向うに、いくら歌うても、いくら歌うても声が枯れない、いわゆる寒ごうりをとる。今こん中におる人達達が、一生懸命大祓いを上げますけど、今度の御本部参拝 してきて、もうみんな声を枯らしてきて、本人には大祓いでも上げ、奏上したんでしょうね。
ですからね、あれをもうひとつ、いわゆるおらびおくというですかね、いわゆる寒ごうりをとると、もうあとは、なんぼでもなんぼでも声が出る、ね。
そこんところが有難い。ね、今まで自分になかったはずの力がそこから生まれてくる。
お互いが寒修行をする、とても私どんは朝参りどんでけん、もう朝起きはでけん、というておる人達がです、神様にお願いをして、神様のおかげでです、ひとつお参りをさせて頂いて、ね、寒修行に参加さしてもらう、全教一斉、一せいに勢信心ですね。
御本部ではじめてですけれど、ここではまあ、こうして、そして本気でひとつ寒修行に取り組ましてもらう、ね、ですからやはり眠くもあるんです、寒くもあるです、だから、それをやはり眠いところを、やっぱ跳ね起きる元気な心と寒いのをおかしてお参りをしてくるというね、その元気な心、それがです、なるほどそれは自分のひとつの我力であり、自分の一生懸命の力であると、ま、思おうていいですよ。
ね、そうして一月なら一月間ですね、お参りをしてみて振り返ってごらんなさい、はあ、自分の力じゃなかった、ということが分かるんです。
ね、今までにですね、ないと思うておった、いわばものが出てくるからです。
私共、例えばなら、二十年前のこと振り返ってみてです、まあ、ようもようもああいう修行ができてきたもんだとこう思うです。そん時にはもうほんと一生懸命でなら、その修行に取り組んだんです。まあ、自分がそれこそ、ま、我で取り組んだような感じでした。けれども今、よくよく考えてみると、神様のおかげで出来ておった、させられておったんだということを思うです。
ここはもう理屈じゃないです、ね、神様のおかげを頂かなければ修行は出来んです、というて神様がさせなさるなら、いっちょ神様が起して下さろうけんで、ね、神様がこうして、神様、力にしてくださるけんで、ね、田なら田、畑なら畑を耕すでも農家の方がそうだと思う。は、自分の力じゃなかなら神様が耕して下さるけんで、ほうからかけとく、ような考え方ではいけんのです。
ね、本気になって生き神金光大神のお取次ぎを頂いて金光大神、金光大神とほんとに取り組んで、耕させてもろうた、その後にです、ほんとに自分じゃ出来るこっちゃないことを出来ておるのにおどろく、これはもうほんとにもう、一切がそうなんですよ。
もう日々の御用でもそうです。私ががこれだけの事せにゃ、もう私がするがいい、して本気でやってみるがいい、けれどもおすがりしてやらせてもらわにゃ、私がしよる、私がこんだけのことをしよるとこう思いよるけれども、それをほなら、あとになって考えてみると、私じゃなかった、させられておったんだと、神様のおかげでさせて頂いておったんだということが分かる。
ね、ここはもう理屈じゃないですからね、やはりその頑張ってみなければ分かりません。
そしてなるほど、わが力で産むと思うな、みな神の恵むところぞ、とおっしゃることがよー分かります。
お産をする人が自分で力んで、自分が産んだ、神様が何の、けれどもです、もう力ませれているんです。なるほど、自分の力で産むのじゃではないな、みんな神様のおかげで産まして頂くのである。神のみんなが恵むところぞ、と仰る。
私共の上においても同じ事、ね、私、信心生活の本当の有難さはですね、ここんところが分かる、神様のおかげを頂かなければ立ち行くことじゃない、神様のおかげを頂かなければ、神様の本当の恵みに浴しなければ、いわば朝、目を覚ますことすらができないということ、それを自分が枕時計かけといて、自分が目が覚めたと思っている。
決してそうじゃないですよ。枕時計のおかげじゃないです。後で、後で、後で分かるんです。それにはやはりですね、枕時計でもかけるだけの、やはり緻密な精進というのがいるんです。
ね、お参りさせて頂いてです、寒修行をほんとにひとつ一回お参りしてみてごらんなさい。 はー自分が参ったんじゃなかった、やっぱ神様から参らせて頂いておったんだ、自分が修行したんではなかった、神様が修行させてくださったんだということが分かる。
ね、そこんところがやっぱ、ひとつの力みといったようなものが出てくる。そして後で後で考えてみると、その力みですらがです、自分でりきんどったんじゃない、力まされとったということが分かる。
ね、神のおかげで、みな神の恵むところぞ、わが力で産むと思うな、わが力で参りよると思うな、ほんと神様のおかげで参らせて頂いておるのぞ、修行させて頂いておるのぞ、と分かってくるときにです、お参りさせていただいたことが有難い、今日もおひき寄せ頂いて有難うございます、と皆さんが言うでしょうが、あれなんです。自分が来たちゃない、神様からもうこう、手繰り寄せられとっと、ということが分かってくる。それが分かってくるところにです、本当の信心の喜びというかね、信心の有難さというものがいよいよ分からせてもらう、もう何をするにも神様のおかげで、神様のおかげで、神様のおかげなしには、出来るこっちゃないことが分かってくるときに、もう世の中の一切のことが神様のおかげを受けていることが分かってくるようになる。
ね、そこにいわば有難い、有難いの生活、勿体無い、勿体無いの生活が出来るようになる。そういう意味合いで、どうぞ明日からですね、工夫しなければいけません、今、朝の御祈念にいつでもこうして皆さんがお参りになっておられる方は、それでいいというのじゃない、内容にちょっと工夫しなきゃいけん。時間が幾分遅くなる人は、ひとつ、もうきっちとしたね、五時の御祈念に間に合うように出て来るとか、まあ、電車やバスやらを利用される方はまぁ仕方がないとしても、それでもその内容にです、ひとつ寒修行中はこれを、といいったような工夫をして、寒修行に参加させてもらいたい、ね、ここでは初めての寒修行です。全教あげての寒修行、そして今までこれより以上でなかったはずの力がですね、出てくることに驚くほどの力を頂きたい、ね、寒ごおりをとっておる人達がです、ね、普通の声はこれだけだけれども、そのまいっちょ向うにもう尽きぬ声、いくらおらんでも、いくらおらんでも、いくら歌っても、いくら歌っても、ね、ひとっつも枯れない声がその下に潜んでおる、そういう力をね、寒修行で頂きたいと思いますね。どうぞ
大坪かよこ